4/3 J庭で無料配布したものになります。
(初出はRPF-AUとして書いたものを改稿、アレンジしてお送りしております)
「ザ・プラザへ、ようこそおいで下さいました」
五番街とセントラルパークの南側の景色を独占している高級ホテル&コンドミニアム、言わずと知れた『ザ・プラザ』のレセプショニスト、エリーク・ランスキーのスマイルにたっぷりとチップを払いたいと言う客は彼自身が思っている以上に多い、という噂だ。
「お待ちしておりました、ミスター・リチャードソン様」
ワガママ放題で育ったお嬢様も、孫と疎遠になって久しい大富豪の老人も、視線をしっかり合わせ「今、一番あなたのことを大切に思っているのはわたくしです」と語りかけてくるような眼差しと、きれいなカーブを描いたばら色の唇が作る幸福感たっぷりの微笑みに、その日彼等に降りかかった災難などなかったことにしてしまえそうな心地になるのだという。
(まあ、そういう噂……だ)
くっきりとした二重まぶたの奥の眼光は鋭い。無精髭、しっかりとした顎、太い首、身をかがめているにしても大柄とわかる中年男はレセプションの奥の控え室に備え付けとして置いてある車椅子の車輪を取り替えながらちらりと見え隠れしているエリークに向けて視線を投げた。
それから、小さく舌打ち。癖のようなもので、気をつけようとは思っているのだが周囲に誰もいないとつい油断してしまう。
男はニューヨークで一番の歴史だか因縁だかを持つこのホテルのメンテナンス係だった。年は五十手前(ありがたいことにそうは見えないと言われるが)名前はキース・ベネット、ポロシャツの胸ポケットにはきちんとその名の刺繍が縫われているが、わざわざ名前を呼びかけてくるような人間はこのホテルに幾人もいなかった。
彼等メンテナンス係の仕事は壊れた(客が壊した)家具の修理から、剥がれたり燃えたりしたカーペットを敷き直したり、ジャグジーの修理、空調のトラブルへの対応、ハウスキーパーの女性達が涙目になるほどにめちゃくちゃになった部屋を片付けること、等々、それはもう多岐に渡る。
この間はソファが縦になっていたこともあったし、ベッドのマットレスがバスルームに突っ込まれていた、なんてこともあった。
そのほかにもコンドミニアムに住む考えられないくらいの金持ちの部屋の電球を取り替えたり、出しっ放しにした水を止めるために蛇口をひねったりするのも仕事。つまり、人前に出ない雑用のあれこれを担当していると言うことだ。幾人かの腕利きの人間が二十四時間常時、地下三階の小さな冷蔵庫があるだけの小部屋で待機している。
そんなモグラともあだ名されるようなメンテナンス係の男が、ホテルの花形と言えるレセプショニストと関わる機会はほとんどないはずだった。現にキースはほとんどのレセプショニストに名前を覚えてもらっていない。
ミスターと呼び掛けられることすら、まずなかった。
しかし、エリークは違っていた。客の流れが一瞬途絶えたのだろう、控え室の方に顔を出し、
「……直りそう?」
と、少し首を傾けて声をかけてくる。彼はキース、と普通に呼び掛けてくるし、だからと言って横柄な口も利かない。
これぐらいの修理、誰にでも出来るものだとキースは思いながらも、そうは答えず「パーフェクト」とだけ、返した。
「良かった」
ぱあっと広がるスマイルには片頬を上げる程度に答えて、キースは工具箱を片付けはじめる。今、この時間を担当しているレセプショニストは二人だ。カウンターにはシェリル・ハッチンスというこれまた客からの評判の良いブロンドの美女が立っているので、控え室には誰もいない。キースはそれを知っていたけれど、なお周囲の様子をうかがって、声を潜めて続けた。
「おまえにな……、聞きたいことがあったんだが……」
その表情は何も知らない人間からすれば、人相の悪い男が脅しをかけているようにも見えるだろう。しかし、彼とはもう十年ほどの付き合いなのだ。
「ん? 何?」
パチパチとまばたきをして、長い睫を揺らしたエリークはレセプショニストの宿命と言うべき寝不足のせいで少しばかり目の下にも影を作っていたが、それに気付くのも普段彼の顔を見かけることの多い立場の人間ぐらいのことで、仕事には差し支えないのだろう。逆を言えば、親しい人間からしてみれば心配の種でしかない。
だから、キースは口にしようとしていた言葉をぐっと喉の奥に飲み込んだ。
「あー、いや、なんでもない……忘れてくれ」
「そう?」
エリークは腑に落ちない、という表情で今度は逆側に首をかしげて見せたが、キースは曖昧な笑みのような表情でごまかし、ワークパンツの後ろポケットに忍ばせておいたチョコレートバーを取り出し、エリークの方へと放った。どこにでもあるキオスクでも買えるような子供が好むチープな菓子だが、キースはこれがエリークの好物であることを知っていた。ヌガーとナッツとミルクジャムが詰まったジャンクなそれは彼の疲労回復のための必須アイテム、でもあった。
「ありがとう、キース。後で、食べる」
受付で見せるよりももう少し、子供っぽい、茶目っ気のあるスマイルを浮かべたエリークはチョコレートバーをジャケットの内ポケットに忍ばせた。そして次の瞬間に鳴らされた呼び出しベルの音に肩をすくめて、じゃあね、と軽く手を振り、表舞台へと戻っていった。その足取りには疲れを感じなかったが、キースの知る限り、最近のエリークのシフトは過密が過ぎる。
そろそろ、ゆっくり休まないといくら若いと言っても破綻が来るのではないか、と思ってしまうのは年配者特有のお節介なのか(父親面とでも言われそうなのが痛いところだ)、どうなのか。
「……いざとなると聞けないもんだな……」
キースは小さく息をついて、工具箱を手に立ち上がると控え室を出る。もちろん、受付側からではなく、別の扉から。
ホテルには目に見える華やいだ世界と、そのまったくの裏側が同じように、いやそれ以上の広さと深さをもって広がっている。もちろん輝きが強いほど、その光の作る影は暗く濃くなるものだ。キースのように当然のように「モグラ」の立場を受け入れている人間達と違って、明るいところと暗いところを行き来している人々にとって、それはかなりのストレスになる。
その中で、エリークのようにチープな甘い食べ物に救いを求めるものがいるかと思えば、仕事帰りに五番街のショーウィンドーを穴があくほど見つめ続けるような人間もいる。酒に逃げるものもいれば、それ以上のバッドケースもよく耳にすることだ。眠気覚ましのカフェイン錠をガリガリやりはじめたら、要注意だ。
その中で、もう少し健康的で、もう少したちの悪いストレス解消の特効薬と言えば、噂話、と言えるだろう。毎日、あちこちで繰り広げられる噂話は「上客」のこと、「バンケット」のこと、「おえらいさん」のこと、同僚のこと、などなど様々で、どれもが下世話で、当事者ではない限りはまあまあ愉快だ。
キースも今まで様々な噂を耳にしては受け流してきたのだけれど、最近よく耳にするのがエリークに関してのことだったので、少々落ち着かない思いをしていた。だから、先ほど、直接その噂の件について尋ねてみようとしたが、まっすぐなエリークの視線と、曇りのない目の輝きを見てしまっては何も言えなくなってしまったのだ。長い付き合いなのに、噂の方を信じるのかと思われても良くない。
「……信用していないわけではないんだがな……」
そうなのだ、彼とはもうずいぶん長い付き合いになる。
その付き合いを「友情」と言うべきなのか「同僚」と言うべきなのか、それともそのどちらでもないのか、キースには説明できないものではあったけれど。
*** *** ***
『すみません、ポーターのランスキーですが……、お願いしたいことが……』
エリークの出会いは、十年かもう少し前のこと、キースは四十歳になったぐらいの頃だったが今とさほど見た目は変わらず、口数が少なく、特に親しい友人もいない、どこにでもいるホテルのメンテナンス係のステレオタイプだと言えた。
エリークの方は、と言えばすでに二十歳を過ぎていたのだろうが、大きな青い目に口紅をつけたような色の唇を震わせた、人と視線を合わせられないようなおどおどとした少年にしか見えなかった。
ポーターとは名ばかりだったのか、日々先輩に小突かれて、チップのもらえないような雑用ばかりさせられていた。靴磨きをしているのは彼なのに彼のポケットはいつも空っぽ、とも誰かが言っていたが、少しでも彼を目にすればその話が真実なのだろうと容易に納得出来た。
キースは彼のことを何度か食堂で見かけてはいたが、十分に食べることが出来ていないのか痩せぎすなところが気になっていた。それから唇を噛むのが癖なのだろう、いつも下唇に歯の跡がついているのも見ているこちらを居心地の悪い思いをさせるものだった。俯いてばかりいる彼はそんなことを考えている人間がいることにも気付いていなかっただろうが。
口を利くこともない、強いていえば顔見知り程度の関係が続いていたが、ある日、震える声で彼はメンテナンスの人間の待機している小部屋に電話をかけてきた。内線番号表にもちろん番号は記載されている、従業員であれば誰でも電話をかけることは出来るが、その内容は「402号室のバスルームで鏡が割れた」だとか「スーツケースの車輪が壊れた」だとか、そういうものがすべてだ。
しかし、エリークの用件は違っていた。
「なんだ?」
彼、いわく。
従業員一人一つ与えられた更衣室の小さなロッカーの鍵を「誰か」に壊されてしまったと言うのだ。中には着替えが入っているし、貴重品も入っているので困っている、という説明を終えるのに彼は何度言葉を詰まらせたか。泣き出してしまいそうになるのをこらえている、ということは誰にでもわかることだった。
それぐらいはいくら鈍感と言われがちな年頃、中年の男にもたやすく理解出来る。英語もあまり上手ではないのかもしれない、少し聞き慣れないアクセントをマネージャーに指摘されているのを見かけたことがある。ポーターにそこまで求めるのも、と思ったけれど、咎めることができる立場でもなかったのでそのままにしていたが、そうすべきではなかったようだ。
「今から行く」
『……ありがとうございます……』
キースの声はいつも少し掠れていて、身内以外の人間相手にはとても愛想が良いとは言えなかった。しかし、そんな声にエリークが明らかに安堵したのが受話器越しに伝わってきたために、キースの胸はちくり、と痛んだ。もう少し優しい声音を作るなり、気の利いた言い回しはあったと思うが、泣いている子供にどういうたぐいの言葉をかければ正解なのか、彼にはよくわからなかったのだ。
「……すみません、あの、わざわざ……」
ロッカールームに向かうと、エリークは廊下に所在無さげに立っていた。よう、と声をかけて返ってきたのが、この弱々しい声だ。
かろうじて声は聞こえても、顔は見えない。身長差もあるけれど、彼の目には今靴先しか写っていないのだろうぐらい、顔を俯けていた。そこをのぞき込んで話しかけるほどは親しくなかったが、涙の気配を感じてどうにも落ち着かない。
そのせいでキースは思わず小さく舌打ちをしてしまった。その瞬間、エリークの肩は震えた。
「あー……、今日は暇だった、気にするな」
すぐに取り繕ったところでどうこうなるものでもないが、震えてしまった肩を軽く握った拳でこづいてごまかす。
客が出入りするエリアと違って、従業員しか出入りしないエリアは一般の人間が思うよりもずっと狭く、暗く、よどんでいるものだ。照らす明かりの数が圧倒的に少ないし、ワイヤーや金具がむき出しなところもある。それに従業員は皆、表の世界でどんな理不尽にも笑顔で堪えなければならない。
そのストレスを抱えて休憩に入れば、ため息や悪態の山になるというものだ。直接客と接触のない業務の方がチップはもらえないが、気は楽なのかもしれない。
ポーターやウェイターが集まるロッカールームの一角も例に漏れず、よどんだ空気の吹きだまりだった。普段そこに出入りすることのないキースが顔を出すとざわついていた部屋は一気に静まり返るが、それでも皆がにやついた表情でエリークを見ていた。
なるほど、とキースは周囲を一瞥する。下を向いているのが、数人いるが彼らはエリークよりもさらに年若だ。見て見ぬふりをすることで自衛をしたつもりになっているのだろう。
俺には出来ない生き方だな、とキースはまたも舌打ちをしてしまった。こんなくそったれどもの相手をまともにする気にはなれないし、こんなことぐらいで弱気になるな、とエリークをどやしつけたい気持ちもあるが、人には得手不得手があるものだ。自分が満面の笑みで客に奉仕出来るかと聞かれれば、答えはノーだ、出来るはずがない。
はたして、エリークの名札の入ったロッカーは、隙間という隙間をコーク材か何かで埋められてしまっていた。これはさすがに同情せざるを得ない。完全に密封されていて、メンテナンスどうこうという問題ではない。大型のレーザーカッターでも持って来ないとどうすることもできないだろう。
しかも、おそらく中を開けたところでエリークの望む形で持ち物は戻って来ないだろうと思うのだ。二段構えの絶望が彼を襲うだけだ。親の形見でも入っているのか? と小声で尋ねると、それはない、と首を横にふられる。
ただ、と小さく聞こえるのもやっというような声でこう続けた。
「楽譜が……」
楽譜が入っているんです、と言ったあと、エリークはいつもよりも強く、下唇を噛んだように見えた。形見ではないにしても、それが彼の大切な、失い難いものであるのはわかった。
「……よし、これは後で俺が開けて中身を出してやるから、今日のところはうちへ来い」
でも、と言い淀む彼を黙らせるために、キースは少しだけ顔を近づけのぞき込むようにしながら続ける。ポーターの制服のまま外には出られないが、メンテナンスの人間の着るポロシャツには余裕もある。適当なワークパンツもどこかにしまってあったはずだ。
センスは合わないかも知れないが、当面の着る服だってくれてやってもいい。多少大きいかもしれないが、小さいよりはいいだろう。
チップはなくてもここの給料はそれほど悪くはないし、数日分の小遣いぐらい貸してやれるさ。
だから、いいな? もう、泣くんじゃない。
「いいか、話を合わせろよ?」
キースは人助けを一時的な非難場所の提供だけにとどめておくのが何となく片手落ちな気がして、もう少し踏み込んでしまおうと考えた。ほんの気まぐれではあったが、悪事ではない。この部屋の空気の悪さを思えば、ここまでではなくともそれなりに色々あったのだろうと考えるのが普通だ。
「何で俺の知り合いだって言わなかったんだ?」
キースは少しばかり、声を荒げた。
酒に掠れたような声は物心からずっとそうで特に理由があるものではなかったが、恫喝する時は中々に役に立つ。それに、お仕着せ組(ポーターやドアマン達のことだ)に比べればずいぶんと人相も悪い。褒めてくれる女もいたが、おだやかで輝かしい笑顔を基本とする彼らとは種類が違う。ワイルドと言われたことはあっても、ハンサム、とは言われない。わかるだろう?
それに長く続けたボクシングで鍛えた腕にはトライバルなタトゥーが刻んである、指にもだ。
キースは自分のルックスの持つ、雰囲気というものを利用することに特に抵抗感は持っていなかったので、周囲の反応を見ながら、続けた。
下手な芝居でも、それが真実ならば十分な予防線になりうるからだ。
「俺がムショ上がりなのはマネージャーも知っていることだ、隠さなくても良い」
つまり、そういうことだ。メンテナンスや清掃を担当する人間がモグラと呼ばれるのにはわけがある。待機場所が地下だというだけでなく、外の明るい世界で働くのが難しい人間が多いのだ。訳あり移民やPTSD持ちの元軍人、前科者など、上げれば切りがないほど。
にやにや笑いを浮かべて遠巻きで見ている連中も、きつく睨みを利かせればロッカーの影に隠れてしまうぐらいには生き方が違う。キースは裁判次第では無罪もあり得たのだけれど、運悪く数年を過剰防衛の罪で刑務所で過ごすことになった。もうずいぶん前の話だったが、履歴書から消せるわけでもない。
「ご……ごめんなさい……」
謝らせたいわけではなかったが、ここは仕方がない。
「誰がやったかわかったら、俺に言え。いいな?」
「うん……」
そのやりとりだけで、仕込みは十分だった。顔色が明らかに悪くなっている人間が何人もいたので、キースはひとまず安心して、そのままエリークを連れてロッカールームを出た。
それから自分の勤務時間が終了するまでメンテナンス室で彼を待たせ、ブルックリンの自宅まで連れ帰った。滅多に使わないタクシーに乗ったのは、せっかくのきれいな顔立ちを台無しにする酷い格好をエリークにさせていたからだ。
しかし、家に戻ったところで二十代の若者が着るような服が置いてあるわけでもない。すっかりくたびれた古いロックバンドのTシャツと、彼が履いたこともないような昔ながらの形のジーンズを貸したのだが、丈が足りなくて足首が丸出しになっていた。
それ自体はこちらの足が短いせいなのだが(身長で言えば、不本意なことだが)あまりにも申し訳なさそうに立っているものだから、吹き出してしまった。たぶん腰で押さえている手を離せばそのままずり落ちてしまうのだろう。
彼もそれにつられたように笑いだし、目の端に涙をにじませながら、ありがとう、本当にありがとう、と囁くよりもかすかな声で繰り返した。
それが、キースとエリークの今に至る関係のきっかけだった。
馬鹿な奴だ、とキースはその日を思い出すたびに同じことを思う。数日後、彼の何らかの思い入れのある楽譜は無事救出することができた。それを手渡した時もまた、ありがとう、と目を潤ませた。
本当に馬鹿なのだ。たまたま彼が困り果てて助けを求めた電話を取ったのが、たまたま自分だったというだけなのに、世界には俺しか優しい人間はいない、とでも思い込んだように彼はそれからすっかりこちらを見つめるようになってしまった。
同僚のサンチェスだって気の良い奴だ。助けて、と言われたら俺と同じように助けただろう。
それなのに。
それから毎日どこかの時間で彼の顔を見かけるようになった。彼がお仕着せ組がまず顔を出さない、メンテナンスの待機室の隣の喫煙・娯楽室にひょこひょこ顔を出してくるようになったからだ。
彼はそこで食堂から持ってきたサンドイッチやドーナツを食べたり、いつもポケットに忍ばせているというチョコレートバーをかじる。それを見ていたキースは甘いものばかりじゃまずいだろう、と休憩が合えば食堂に誘い、時折外に連れ出してランチを取るようになった。やがて上がりの時間を合わせて夕食を食わせてやる日も増えていった。
トマトソースとミートボールにはちょっとした自信があったものだから。
おはようの挨拶、シフトの話、天気のこと、世界が狭い者同士の少ない話題はすぐに尽きるかと思っていたのに、いつの間にか彼と過ごす時間は毎月、毎年、少しずつ増えて行ったのだ。
そんな時、キースの目にうつるのは、エリークの耳の先や頬のてっぺんだった。
そこが、普段仕事中で見かけるより、赤く染まっていることにも気がついていた。
長いまつげが震えていることも、当然気付いていないはずがないのだ。
彼はまだまだ世間知らずで若かったが、キースは十分過ぎるぐらいに、大人だった。
「……だからこれは……俺のせいだな……」
彼とのことを考えると、必ずここに落ち着いてしまう。気の迷いだ、と思っているのならもっと早くそう口に出しておくべきだった。だけれど実際は、特定な恋人も作らず、彼の赤く染まった頬を眺めて、コーヒーのお替わりがいるかなどと尋ねるだけだ。
もう、十年が経つというのに。
ぬるま湯に首まで浸かって、大きな変化がないことに満足しているのはそこにいるのが心地良いからだ。しかし、世の中だって十年も経てば大きく様変わりするものだ。いつまでもこのままでいられるはずがないというのも、よくわかっていた。
何しろこちらは日陰の身。
彼に降り注ぐシャンデリアの輝きは、すでに自分には眩し過ぎた。
*** *** ***
「あんたの坊やの噂、知ってるの?」
夜間マネージャーのニコール・レーンは出勤前の腹ごしらえに、ステーキ&フリットを作らせて黙々と食べていたはずだったのに、眠気覚ましのコーヒーを飲みに来ただけのキースに脈絡もなく話しかけてきた。
あんたの坊や、という響きは気になったが、立場的に口答えをするわけにも行かず、「さあ」とあいまいにとどめておいた。
「ザ・グリニッジ・ホテルよ?」
そのホテルの名前はキースもよく知るものだった。トライベッカにあるラグジュアリー・ホテルで苦情という苦情を聞いたことがないぐらいにきめ細やかなサービスが売りの評判の良いホテルだ。
ザ・プラザよりはずっとこぢんまりしていたが、向こうの方を好む客も少なからずいるだろう。
「……格式はこちらの方が上ですよね」
「そりゃあね」
ホテルの種類が違う、とニコールは鼻を鳴らす。彼女も元はレセプショニストとして、別のホテルで働いていた。その前はまた別のところに。だから彼女の言いたいことはキースにはすでにわかっているのだ。ただ、彼女とは親しくその内容について話す仲ではない、ということだ。
エリークがその魅力を買われて、ザ・グリニッジの支配人から破格の報酬を提示された、だとか。
モデルになってもらえないか、と高名な写真家に言われた、だとか。
目の下の隈を消すためにメイクをしている、だとか。
キースが強く望んだわけではないが、結果的にエリークに関する噂のほとんどを把握していた。しかし、だから何だと言うのだ。よくよく考えたが、自分にはそれを彼本人に問いただす資格すらない。
「……どうするつもりなの?」
もちろん、行くなと言えるような立場でもない。それに、知る限り、ここよりもザ・グリニッジの方がエリークに向いているような気もする。
「俺がどうこう言う話じゃないですよ」
結局、これがキースの出した結論だった。しかし、それについて他人に口出しされるのが面白くなかったので、コーヒーを二口ほど飲んだだけだったが、その場を離れることにした。ニコールはそれ以上の追求をするつもりはなかったようだが、目を細めた何か言いたげな表情でこちらを見送った。
あんたの坊や、か。
キースは舌打ちをして、持ち場に戻ろうと階段室の重たい鉄扉を開いた。
「……ど、どうしたんだ!」
まさか、そんなところに?
と、思わず声が裏返ってしまう間抜けぶりをさらけ出してしまったが、キースは慌てて踊り場まで階段を駆け下り、そこにしゃがみ込むようにしていた青年のところに駆け寄った。
「エリーク……? 具合いが悪いのか?」
そう、膝に顔を埋めていてもわかる。エリークは少し前に上がったはずなのに、こんなところで制服を着たままうずくまっていたのだ。胸騒ぎが焦りに変わるのは一瞬のことだった。
「……キース……?」
幸い、すぐにいらえが返ってきた。意識を失っていた、とかではないようだ。
「そうだ、俺だ……いったいどうしたんだ……」
しかし、間近で見るとぐっと隈が濃く見えた。下まぶたを指先でそっとめくって見ると血の気はなく、完全な貧血状態だということがわかる。毎日それなりに顔を合わせていたはずなのに、ここまで体調が悪かったことに気づけなかったのか、という自責の念がキースを襲う。チョコレートバーの一つや二つでは何の解決にもならない。
「最近……眠れてなくて……」
ごめんなさい。
まるで出会った頃に戻ってしまったかのようなか細い声。みるみる内に目尻に涙がたまり、ほろほろとこぼれ頬を伝っていく。なんていう悲しい泣き方だろう、ほかになすすべがなく涙しか流せない、そんな風に見えてキースは胸をえぐられたような痛みを感じる。
「シフトがきついのか……? さっきそこにレーンがいたから……聞いてみてやろうか?」
そんな資格などないのに、キースはどうにかしてやりたくてそんなことを口にするが、エリークはふるふると首を横に振るだけで何も言わない。
「……泣くな……」
頼むから、泣かないでくれ。不器用な生き方をしてきたせいでこんな時にどうすればいいのか、まったくわからないのだ。仕方なしに肩を撫でてやりながら、エリークが口を開くのを待った。熱はないような気がするが、どうだろう、医者に連れて行った方がいいのだろうか。
「何を……聞こうとしてたの……?」
震える唇が紡ぎ出した声もまた、震えていた。ただ、数日前に言いかけた言葉について聞かれるとは思っても見なかったキースは「……別に……」と、思わず言葉を濁してしまう。
しかし、エリークは瞬きごとに涙を溢れさせるのだ。
「あー……、わかった、わかったから……」
キースは観念した、と言うようにエリークの肩をぐっと力強く掴んだ。そして、見聞きした噂のこと、もし真実ならどうするつもりなのか気になったこと、グリニッジの方がおまえには合っていそうだということ、若いんだから可能性を大事にしろという説教、すべてをぶちまけた。
いや、すべてではない。
本心以外は、すべてだ。
「……唇を噛むな……」
しゃがれ声がいつも以上に掠れていることに気付いているのか、エリークはまたも首を横に振って、涙をこぼして、それから強く、強く、歯を立てた。これ以上強くしたら血が滲んでしまうのではないかと思われるほど。
「頼む、エリーク……俺は卑怯な男なんだ……」
本当に酷い台詞だ、とキースは奥歯をぎゅっと噛みしめた。自分で動き出そうとしないで、そのくせ変化に脅え、それでいて庇護欲だけは増す一方で、たちが悪いヒモ男のように思われたかもしれない。
「本当にね……」
ひっく、と一つ喉をはしゃくりあげたエリークは何とか笑顔を作ろうとして失敗する。すっかり制服のジャケットや袖口は濡れてしまっていた。
キースは答えようもなく、もう一度肯定の意味をこめて、肩を強く掴んだ。抱きしめてやりたいと思ったこの気持ちを言葉にすればいいのに、出て来ない。特定の恋人を作らず、誰かを口説いた記憶も大昔過ぎて断片しか思い出せないぐらいだ。
その理由を口にすればいい。
「でも、僕も弱虫だ……」
「そんなことない……」
「今の毎日が……変わるのが怖かったんだ……とっても楽しくて……」
「ヘイ、坊や。……それは俺もだ……」
おはよう、おやすみ。
美味しかったね、のスマイル。
ささやかだけれどその日々の繰り返しが、日常の大切な養分のようなものだった。お互いに、それを手放したくなくて、でもお互いに、それ以上を少しずつ望むようになった、夢見るようになった。
「……俺なんかより優しい男も、いい男もいっぱいいるだろう……」
もう五十歳になるんだ、と呟くように言ったキースにエリークは涙に頬を濡らしたまま、ふふっと頬を緩めた。
ザ・プラザの受付にいる限り、出会う人間のほとんどはエグゼクティブか政治家かセレブリティだ。勝負を挑む方がおかしいという笑いなのか、五十歳には見えないということなのかわからなかったが、この世の終わりのような悲しい顔ではなくなったのでキースも安堵の息を吐く。
「……グリニッジには行くな」
そして、低く抑えた声で、初めての本音をようやく口にする。正しいか正しくないか、ではなくて伝えたいことだ。
「うん」
エリークはしっかり頷き、
「……即答か……」
キースが見た最近のエリークのスマイルの中で、一番甘くて、一番とろけそうなぐらい幸せそうな、微笑みを浮かべてくれた。
「うん」
キースはこの瞬間に、覚悟を決めたと言っていいだろう。まだまつげにはたっぷりの涙が滲んではいるが、大きな青灰色の瞳は自分をしっかり写しているのだ、これ以上迷っていては天罰が下りそうだ。
言葉はまだ見つからない、単純な「アイ・ラブ・ユー」で済ませていいのか、それこそが大切なのか、それすらもブランクがありすぎてわからない。
ただ、もうこれ以上彼を泣かせたくなくて、彼の笑顔を見ていたいと願った。
「……ん……」
言うなれば、愛しいと思うこの気持ちを表現するためにキースに出来たことは、エリークの貧血気味であるはずなのに、ばら色の唇にキスをすることだけだった。
「キスまでに十年かけておいて、こんな場所ですまなかったな……」
酷いな、と階段を見上げて、それからもう一度、唇を重ねた。思春期の少年少女だってもう少しまともなキスをすると思ったが、胸の奥から広がる甘さと、幸福感は確かに本物だ。これが恋愛だ、ということを思い出すには十分過ぎた。
「……馬鹿」
上擦る声に、頬を染めたエリークの体をキースはようやく「同僚」にするように、ではなく抱きしめることが出来た。ふわりとコロンの香りが鼻をくすぐり、キースもまた少し体温を上げた。
「……先に帰ってうちで寝てろ」
シフトはあと半日ある。スマートとは言えない誘い方だったが、鍵を手に握らせてにやりと笑うと、エリークは大きく目を見開き、そして、顔をくしゃくしゃにして喜んでくれた。言葉がなくても、十分に伝わる想いがあるのに、今までが遠回りしすぎた、ということなのだろう。
ああ、おまえもそんなに小じわが出来るようになったのか。
長いところ、待たせて悪かったな。
キースはもう一度エリークの額にキスを落としてから、ゆっくりと立ち上がった。
「エリーク」
そして踊り場を回って少し降りたところで、見上げるようにエリークの方を見た。
「……ん?」
何、と少し不安げになった表情のところで、左目をぱちり、とつむって見せる。手練れめいたことをするつもりはないし、実際手練れでも何でもない。ただ、少しどころではなく、浮かれているのだ。
「……ばか……」
相変わらずの卑怯者だなと思う。
ピアノの置ける家を探そうとか。まずは一曲聴かせてくれとか、色々話すことが頭の中に次々と浮かんでくるのだから、仕方がない。
一歩踏み出しただけで、世界が広がったようだ。ただ、それと同時に彼の世界を狭めてしまわないか、という不安もある。いつか今日の決断を後悔することになったらどうすればいいのだろうと考えれば、もちろん胸は痛む。太い針がぐさりと刺さったように。
だから、この痛みは忘れずにいよう。
「……まずは、口に出して言えるようにならないとな……」
まずはそこからだ、と呟いた後、頬を両手でぴしゃりとたたき気合いを入れた。これから一部屋まるごとカーペットを取り換えなければならない。
そしてその後は、タクシーを飛ばしてブルックリンに帰ろう。
第一声はどうしたらいい?
俺としては、ハグとキス、まずはそこからだと思っているんだが。
どうかな、坊や。
急ぎすぎじゃないといいんだが。